「おたがいさま」でつながっている地域
「砺波市空き家再生等推進協議会」元委員長
尾田 武雄さん
「砺波市空き家再生等推進協議会」の委員長を勤めておられた尾田さん。
砺波の歴史・文化に関して、広く深く調査・研究活動も行っておられます。
砺波を愛し、砺波に精通する強力サポーターです。
尾田さんは「日本石仏協会」の理事でもあり、砺波地方の石仏や地域の風習などをくまなく調べてきました。
石仏を始め、歴史、民俗、考古学、地理、動植物、宗教、教育など、砺波のどんな小さなものにもスポットを当て、自ら生涯学習を実践しています。
楽しく学ぶだけでなく、砺波独自の文化や景観などを守り残していくための調査・研究、より多くの人に砺波のよさを知ってもらうための交流活動など、多岐にわたる活動を行っています。
砺波が誇る「散居村」は、豊かな水の恵みと、米づくりによってもたらされた独自の景観。しかし、今では、空き家や耕作放棄田が増え、その景観が変わりつつあることに、心を痛める尾田さん。この状況を食い止めたいと、2009年から独自に空き家の調査も行ってきました。
尾田さんの本業は、お肉屋さん。揚げたてのメンチカツを売っているお店の2階は、尾田さんの書斎兼資料室。
尾田さんが本格的に石仏調査を始めたのは、32歳。その頃から集めている歴史資料が、壁一面の本棚に、所狭しと並べられています。
北海道から沖縄まで、驚くほど細かい地域のものまで、集められていました。
「石仏を始め、郷土の歴史に関する本というのは、教育委員会などがまとめ、地域内だけで配布されていることが多いんです。一カ所一カ所、電話をかけて、送ってもらって集めたんですよ」 何百年、何千年も前の砺波の人々の想いや暮らしに想いを馳せながら語る尾田さんの目は、いつもキラキラ、少年のように輝いています。
信仰にあつい砺波地方では、古くから多くの石仏が祀られてきました。その数は約1350体と言われています。 これらは、幕末から明治の頃に作られたものがほとんどだそうです。
「石仏が多くつくられた幕末から明治にかけての時代は、庶民がキラキラ輝いていました。砺波に今も多く残る獅子舞や『講』などが起こったのもこの時代です。」
ばんもち(力じまん)、草相撲などの祭りがいたるところで開催され、「報恩講」「太子講」などが盛んに行われるようになったのも、この頃だったそうです。
21670年(寛文10年)、水害の多かった砺波平野を安定させるべく、庄川の流れを1本にするという大きな治水工事が行われました。
長さ2kmにも渡った堤防(「松川よけ」と呼ばれる)は、45年の歳月をかけて作られたそうです。
「砺波は加賀藩領でした。『加賀百万石』と言われていましたが、実際は120万石くらいあったそうです。『松川よけ』のおかげで、米の収穫が安定し、経済的に豊かになり、人もたくさんいた時代でした。」
「散居村が形成されたのは、1500年頃と言われています。砺波地域の伝統的家屋である「アズマダチ」や「マエナガレ」は、もともとは武士の家の造りでした。収入が安定し、家族も増えた農民たちが、真似をし始めたんですね。
雪の重みにも耐えられる大きな屋根は、当時の砺波の人々の目に、画期的でかっこよく映ったのでしょう。」 家の周りの田んぼは、自分のものですから、住宅を拡げることに制約がありません。
勤勉で働き者の砺波の人々は、手にしたお金を、食うものも食わず、着るものがなくても、少しでも余裕があれば家屋につぎ込んできたようです。
「京都の『着だおれ』、大阪の『食いだおれ』、砺波の『住だおれ』と呼ばれているんですよ」
「砺波は、人々の関係も、米づくりを中心に発展してきました。たくさんの人手を必要とする場合…例えば、田植えや稲刈りの時、家を建てる時などには、ご近所どうしで助けあっていたんですね。 」と尾田さん。
「その名残もあってか、砺波の人たちには『相互扶助』の意識が自然に身に付いているように思います。花壇の水やりや『えざらい』、草刈りなど、徹底して地域で取り組んでいます。」 自分の家にお金をかけ、きれいに保つという「住だおれ」ながら、「地域を美しく保つ」という意識も非常に高いのが砺波の特徴です。
「おたがいさま」という気持ちを大切に、地域のことに一丸となって取り組むので、別の場所から移住される方には、入りにくいと思われるかもしれません。でも、一緒に作業をしたり、ご近所づきあいをしたり通じて、 どんどん打ち解けて行きますので、ぜひ積極的に地域活動に参加しましょう。